『文化系体育会』

まあ昔から書評やら感想文というのを書くのがものすごく苦手だった。
というのも、そういう分析的な読み方をするのは苦手だったし、面白かったものについて語ろうとしても、楽しかったやら面白かったやら、そういう陳腐な言葉しか出てこなくて書いているうちに嫌気が差す。かといって面白くない作品については、書く気にもならない。感想が言葉にしやすいであろう、読書ですらそれなのだから、演劇となってしまえばさもありなん。去年の夏ごろから結構数の舞台を見ていたわけだけれど、一度として言葉をしたいという願望は生まれなかった。にもかかわらず、今回劇評を書いてみようと思ったのには、いくつか理由がある。
ひとつには今回の演劇自体がすごく面白かったということ。
二つ目はそれでいて非常に複雑な感情を抱いてしまったこと。
最後に、物語の構造というのが非常にわかりやすく、言葉にしやすかったこと。
そうした幾つかの理由で今回、うだうだと書く事にした。ずいぶんと前置きが長くなってしまったけれど、そろそろ作品について語ろうかと思う。


青春という言葉は、よくいい意味で使われがちだ。
例えば、オヤジたちのよく言う「青春してるねえだとか」、カップルを見かけたときに言う「青春真っ盛りだわ」とか。そういう風に若さを謳歌しているのを形容するときによく使われている。だけれど、年寄りから見た若者というのは瑞々しかったり、楽しそうだったりするわけだけど、実際本人たちからすればそうではない。青春は甘くて苦い、なんていうのはよく言ったものだけれど、思春期の感情豊かな時期からすれば当然のことだと思う。人一倍楽しみ、人一倍苦しむ、なんてものが思春期の人間たちの揺れ動きというものだ。それがもしかしたら感情が摩耗してしまった大人たちから見れば眩しく見えるのかもしれないけれど。
これはあくまで、僕の実感に過ぎないけれど、「暗鬱とした青春」というのがクローズアップされたのはゼロ年代の小説からのように感じる。まあもっともそれ以前にも多くの作家が描いてきたものだろうし、ただ僕がそうした本に多く感化されてきただけの話かもしれないが。ただそれは学校という空間が誰にとっても楽しい空間ではない、ということが明白になってきたということもあるのだと思う。

この作品は学校という舞台を使っているが、それは格差社会だとか、いじめだとか、ちょっとした人間関係だとか、そういう学校生活におけるネガティブな部分をフォーカスしている。そもそもテーマ自体が「リア充女子が〜〜」だし、コミカルに綴られていく物語の隙間隙間あるいは、大きなシーンを持って、にそうした描写が組み込まれている。青春が楽しいだけの一面的なものではなく、そうではない痛みだとか苦みだとかそうした面からも物語は綴られる。それはおそらく見ていた人々にある種のフラッシュバックのように痛々しい記憶を引き出す。たしかに物語上で描かれたそういう表現はひどく表面的なものであったが、学校生活というものを多面的に描くこと、また場面がコロコロと変わる演出というのは鑑賞者の個人的な経験を喚起させる。そしてまた登場人物の問題点というのが解決されないまま、物語は終焉を迎えるということが、ひどく生々しく、そして痛みを伴った感情を持たされた。

青春の痛みというのは一生消えないものなのか。
あるいは時間が忘れさせてくれるのか。

時間が麻痺させていた痛みを思い出させる作品だったと思う。
ひどく個人的な感傷。