濃紺

襖を開けると午前3時の匂いがした。
春はゆっくりと近づいてきたこの季節とはいえ、まだまだ暗くなると少し寒い。
季節の変わり目と呼ぶにはふさわしい、寒いとも暑いとも言えないような曖昧な空気だ。
僕は昔から寝つきが悪くて、寝床に入ってからすぐに寝られたためしがない。
この夜も布団に入ってからすでに二時間が経っていた。
天井のそこに広がる終わりのない暗闇を眺めながら、ぼんやりと空想にふけることにもそろそろ飽き始めた頃、尿意を催した僕はトイレに行きがてら一服しようと人肌の残る布団をのっそりと抜け出た。

僕の部屋は6畳一間の小さな部屋で、部屋に敷き詰められた畳や、年代を感じさせる天井の色というのは物語の中でしか見たことのない昭和のアパートを思い出させる。
そんな、少しだけ建て付けの悪い襖を電気も付けない暗闇の中、手探りで開けると、少しだけ冷たい空気が体を包み込んだ。
開けっ放しておいた窓の外からは明け方前の一番暗い空気が流れ込んでいた。
じっと暗さに慣れていた目を凝らし、時計を眺めると短針と思しきそれは3の位置を指しているように思える。
草木も眠る丑三つ時。
そんなことを考えながら僕はひっそりとライターの火を灯した。
暗闇に溶け込んでいく煙や、タバコの先でじっと光る炎を見ながら、外から流れてきたのであろう鍵慣れた匂いに思いを巡らせていた。
それはいろいろな思い出を連れてくる匂いだった。

祖父の家は何年か続いた魚屋だった。小さい頃はよく父親に連れられて、寒い冬の深夜に家を出て手伝いに行っていた。

眠気すらも覚ましてしまうような冷気に体をがたがたと震わせながら、家の門を出て、暖房の効いた車内へと飛び込む。そして、オレンジ色のライトが光る深夜の高速道路を走って、祖父の待つ市場へと向かうのだ。市場につき車を降りると、夜の暗さも吹き飛ばしてしまうような異性の良い声と、商品を照らすまばゆいばかりの光が、少年を出迎える。

手伝いに来たと言いつつ、彼は店の中に置いてあるストーブの前で座って、様々な種類の魚を見て突っついたり、魚を裁く姿を目を爛々とさせながらじっと見つめているのだ。
そんな姿を彼の祖父母や、店の従業員は温かい目で眺め、時としてさまざまな言葉をかける。
「この魚はな、きすって言うんだぞ」
「きすって魚編に喜ぶって書くんだよね?知ってるよー」
先日、買ってもらった百科事典で見た知識を自慢げに披露する少年に、周りの大人は少しだけ大げさに驚いてみせる。
「すごいなあ。〜〜は頭が良いねえ。きっと将来は総理大臣になって日本をひっぱるんだな」
「ちがうよ。ぼくはトーダイに入ってお医者さまになるんだよ」
そうかい、頑張りな、と優しい声をかけられて頭を撫でられると、彼はすこしだけぽかんとして、また捌かれていく魚たちを眺める。

空が明るくなり始めると、少年はダンボールの中に入れられて客引きをはじめる。
時期はちょうど12月の終わり、暮れの時期だ。普段は一般の客が訪れず、すこしだけがらんとしているこの場所もこの時だけはいつもとちがった賑やかさが訪れる。
「いらっしゃい、いらっしゃい数の子やすいよー、いまならお値段割引しますよー」
と覚えたばかりの言葉をつたなく話す彼に周りの大人は少しだけ苦笑いを浮かべながら、たしなめる。
「だめだよ、〜〜。そんな値引きしたら儲けがなくなっちゃうよ」
そうなんだ、とうなづく彼も少しするとまた忘れたように値引きしますよー、と声を張り上げる。

そんなことを10年近くも繰り返していた。
思春期の頃は声が出せずに客引きができなかったり、配達の荷物の重さに四苦八苦していた。
いとこが生まれた頃は背中にしょってうろうろとそこらを歩いて回った。

そうした様々な思い出が、タバコの火の向こう側に鮮明に移り変わっていった。
何分経ったのだろうか。火がタバコのフィルターのあたりまで進んで行き、煙の匂いも少しばかり変わってきた頃に僕はタバコを灰皿に火を押し付け、再び寝床へと向かった。

生まれてから、僕の成長と共に歩を進めていたあのお店はもうない。
祖父が急病で倒れ、そのまま息を引き取ったあと、彼のあとをたどるように静かに店は畳まれた。もう数年前のことだ。
大型のスーパーが台頭し、その財力が振舞う猛威に、祖父が無くなる前からすでにさらさていたということを祖父がなくなった数年後に両親から伝え聞いた。
店がなくなる頃、周りのお店が続々と店をたたんでいたという事実がふと思い出された。

そして、祖父がなくなったあと、祖母が一人で住んでいた家も数年後になくなった。
今となっては取り壊されて、空き地となっている。

だからもうこの思い出は行き場もなくふわふわと浮き漂っているだけのものだ。
時折こうして眠りから覚ますときはあるかもしれないけれど、それはもう記憶の奥底に沈んでしまっている。
なくなってしまったもの、忘れ去られてしまっているものを、こうして思い起こすのは郷愁以外のなにものでもないのだろうか。

僕はゆっくりと目を閉じた。今度は眠りの誘いがすんなりと訪れて、僕はそのまま意識の底に沈んでいった。