ハロー、サマー、オア、グッドバイ。

うなぎ食べたい。丑の日だしねえ。そんな会話をしながら始まった夏休み。少しだけ訪れた避暑地まがいの気候はどこへやら、すぐさまカンカン照りの太陽が不条理なまでに街を照らし上げる。セミの鳴き声もしないこの奇妙な夏は節電という名目で冷房の少ない東京を生きる僕らには助けとなるのかもしれない。とはいえ、僕がほとんどを過ごすであろう場所は冷房の効いた自分の部屋か、あるいはバイトの職場、図書館になるのだろう。季節に支配されるのはせいぜい食事の買出しか移動の時くらいなものでそれ以外は僕にとってあまり関係の無いものだ。一日の大半をディスプレイの前か活字の中に身を費やしている以上、季節の色などその中にしか存在せず、ほとんど架空のものになりかけている。何年か前なら自転車に乗ってどこか遠くへと行きたいと願ったものだけど、今となってはその体力もない。せめて車があれば違うのかもしれないけれど、そういうわけにもいかない。閉鎖的な部屋の中でぼんやりと過ごしているうちに夏が終わるのだろうなと思ったりもする。
学校がなくなってしまうと半ば強制的な人間関係も収束してしまうから、ほぼ完全に個人行動になってしまう。自発性というものが欠如しているからかわからないけれど、そうなってしまうと日常の中に埋没し続けて気が付けば怠惰な日々を過ごしている。今年はそうならなければいいなとは心の隅で思っていたりもするが、そういうこともないだろう。ただ小金を稼いで、その労働時間が終わるのを淡々と待ち続ける。
長い休みが始まる前のワクワク感と対照的に、始まってからの機械的な感じはどうして生まれてしまうのだろう。日々のルーティーンというのはまるでかくも人間性をことごとく破壊するフォードシステムのようだ。それは労働であり、あるいは学校というもの、世界の全てを構成するパーツが人間性を壊していく。そう考えてしまえば、人間性というものはなんなのだろう、という答えの出ない命題に遭遇し、あっけなく撃沈。さようなら。などということになってしまうから、考えるのをやめる。思考停止の5秒前。4、3、2、1、ぴたっ。そうしてあらゆることを考えるのを放棄した結果、人間の抜け殻が誕生する、と。あれ、ループしてるじゃん。結局のところ、人間性だのヒューマニズムだなんておためごかしに過ぎないよねえ、なんて今度は陳腐なニヒリズム。そうして、人間の思考はかくも流転していく、と。ヘラクレイトスさまこんにちは。万物はどこへ行くのでしょうね。ただ回るだけ?
ちょっと変わった叱咤あるいは激怒を自分に向けてこんな感じで夏は始まります。ハローサマー。