それでも風車は回りつづける

自分の視界の外で物事が動き回っているのは当たり前の話で、そんなことに絶望してしまうのはそれこそ中学生やそこらの自分の周りが全てだと思っている幼稚な思考に過ぎなくて、よく「神の見えざる手」だの「レッセ・フェール」だという言葉が用いられるように、基本的にはここにいる「私」はこの世に存在するあらゆる「私」と大して差がなかったりする。とはいえ自分というフィルターがなければ、世界を見ることが出来ないのは紛れもない事実で、世界には常に自分が介入しているとも言える。そういう意味では「この」世界の神様は自分なのかもしれない。神がいなければ、客観などこの世界には存在しないように。
なぜこんな中学生みたいなことをいきなり述べ始めたかと言えば、もともと僕がそういうことを考えるのが好きということもあるけれど、書くことがなくなってきたというのもある。とりあえずそれっぽいことを言っておけば賢く見えるかな、という下衆の発想である。スノッブってこういう人たちのことを言うのかな、などと頭の端で思っていたりする。どこの業界にもむつかしい用語がたくさんあるけれど、そういうものをたくさん使っているとそう見えがちなのは、単にそうやって煙に巻く人が多いからだろうけど、読んでいても全く内容がわからないことに疎外感を覚えているのもある。多くの人は意味のわからないことばかり話されていると、だんだん嫌気が差してくるものだろう。それが人によってプライドを傷つけられただとか、退屈だとかいう様々な感情に発展していくのだ。それを考えると、感情というのはいくつかのプリミティブなものを言葉によって切り刻んでいるのかもしれない。でもまあ語りえぬものには沈黙しておくのが賢いだろう。それは本質ではなく、ただ表層をなぞっているだけのものに過ぎないのだから。
そんなことを思いながらも文章を書いているのは自分でも少し不思議で、そのことについて考えてみると、形がないのが不安だという単に一つの感情に帰結してしまう。もちろん、理由を挙げればきりのないものなのかもしれないが、どこから始まったかを考えれば上に上げた感情ただ一つに過ぎない。だから上滑りしていくだけのものだとしても、言葉に執着してただただ物を書き続ける。言葉にしてしまえばかっこいいかもしれないけれど、それは単に絶対に勝てないものへの悪あがきに過ぎなくて、それは人間の行き止まりさえも示唆しているように感じてしまう。一人の人間が出来ることなんて、人によって幅は違うかもしれないけど、それでも限界なんて存在する。切ない話だよね。
なんて中学生じみた青臭い文章だろう、なんて自分でも笑ってしまうほどだけれど、まあそれを認めるしかないあたり僕はソクラテスにはなり得ないのだろう。だから自分を「黒い白鳥」や「醜いアヒルの子」だと思い込むことくらいしか僕には出来ない。