創作をすることに関するちょっとした思索


昔から、二次創作と言うものに興味が持てなくて、周りがやれなのはだのやれハルヒだの騒いでいたときも二次創作を読もうと言う気にはならなかったし、文章を書き始めたときも二次創作をやろうという気は全く起きなかった。今考えてみると理由は簡単なもので、物語というのは作者の中にしか存在しないと考えていた。そして多分今もそう思っている。ロラン・バルトは「作者は死んだ」と言ったけれど、それを聞いた今でも自分の中ではその考えは変わらずにいて、その世界観というのは製作者側だけのものだと考えていたりする。おそらくエロゲが好きなのもその完結性にあるのかもしれない。だからその世界観に自分が入るという妄想などしたことも無くて、したのはその世界観を自分の世界に投影しようとするだけだった。でももしかしたらそれは普通のことなのかもしれないけれど。とにもかくにも、僕としては自分自身を作品に介入したくないと考えていた。
僕はいわゆる作家、特に自分が好きな作品を作るような人であればなおさら、話すことが苦手だ。それはおそらく上に挙げた理由が強くて、作家と話すということは自分自身を作品に介入させてしまう感覚になるからなのではないか、ということに最近気がついた。作品の分析などするのもおこがましい話だし、ましてや作品を賞賛したところで何も無いだろう。会話しようとするときに頭に思い浮かぶのは彼らの作るもののことだけだ。そこについて話したところで、作家自身と話しているのではなく、「作品の延長線上のもの」としか会話していない。結局自分は彼らをコンテンツとしてしか見ていないことに気づく。
おそらく物を作るということは自分自身をコンテンツにする作業で、作家になりたいのであれば、「ほんとの私を誰もわかってくれない」などとは死んでも言ってはいけなくて、デザインされた自分を認めなければならない。多くの人において、物を作るということは自己承認欲求から導かれたもので、見てもらいたい、ほめてもらいたい、「私」を認めてもらいたい、という感情が根底にはあるはずだ。そうした中でデフォルメされ、パッケージングされた自分を認めざるを得ないということはそうした欲求をあきらめなければならないことで、それを捨て去ることが出来た人だけが商業的にやっていける。もちろん例外はあるけれど。
昔はただ単純に作家になりたいなあだなんて思っていたけれど、それをするためには自分の個性というものをしっかり把握して、それをいかに際立たせるか、ということが大事なのかもしれない。でもまあそれは当たり前の話なのかもね。