自閉的な雛鳥は地を翔る

夜に書いた文章というのはそれこそ夜中のラブレターのようなもので、後から読み返してみてうわあとなったりすることもあるというらしいが、聞くところによると物書きで商売している人というのは夜にする人が多いみたいで、夜中のラブレターもレトリックさえあれば、読めるようになる気がしないでもないけれど、今日に限ってはわざわざ午前中に日記を書いているのは、別に夜中のラブレターがいやだとなったわけではなくて、単に昨日の夜に書き忘れてしまったからその分を取り戻そうとする無駄な悪あがきに過ぎない。別にブログを書くことは義務でもなんでもなくて、それどころかむしろ義務をないがしろにして、無駄なことに時間を費やしているともいえるが、趣味というのは有用性が生まれてしまった時点で趣味とは言えず、それゆえにこのブログの更新やらメモ帳に駄文をつづるやらというのは紛れも無い趣味と言えるのかもしれない。こういう人に見せる日記というのは毎日書いているといわゆるネタにすべきものが日に日に目減りしてしまうものだけれど、そうなってからが本当に面白いところで、その中でどのようにやりくりしていくかというのを試行錯誤していくというのが醍醐味と言えるのかもしれない。冷蔵庫の中身で夕食を作るみたいな感じ。まあともかく、そういうことばかりしているから自分の書く文章は回りくどくて、冗長でぜんぜん分らないことが多くて、よく一言で言えばいいのになどという苦言を頂戴したりもする。だからいわゆるtwitterみたいに140字にまとめなければいけないものになるととたんに困ってしまって、終いには「おなかすいた」とかいう根も葉もないことばかりつぶやいてしまう。とはいえこのブログも、もとより身も蓋もないようなことばかり書いているから五十歩百歩と言えて、むしろどうがんばってもこんなコンテンツしか吐き出せない僕は血も涙も無いのかもしれないなどと思う。

最近読みかけの本ばかり増えていて、早く読み進めなければいけないなあなど思っているのだけれど、むやみやたらと背伸びをして妙に小難しい本を読んでばかりいるものだから、再び読みはじめると文脈を理解できなくなってしまっていて困る。哲学の本なんて原文で読んでも気持ちのいいフレーズを拾うことだけに終始してしまうものだから、それならPHP新書で名言集的な本を読んだほうが手っ取り早い、ちゃんと読みたいのであれば体系的に勉強すべきなど、というのをこの間新聞の書評で読んでしまい、じゃあ家に積んであるこの難解な書物の山はどうすればいいのだろう、と途方にくれてしまった。確かにラカンなんて翻訳してあるにもかかわらず、異国語のような意味の分らなさだから、ある意味詩や文学として読むのであれば勉強などしないでかっこいいなあなどとナルシスティックになるのもいいのかもしれない。そんなことを思いつつ、目に付いた哲学の入門書を読んでみたら、これまた驚くべき難しさで僕の知能が低いのかそれとも敷居が高すぎるのかなどと悶々としてしまうけれど、そもそも新書一冊で理解できるようなら大学で科目として存在するわけがないことを考えれば、まあ妥当だろう。そんなことを考えたところでただの自己弁護に過ぎず、とりあえず買ったばかりの入門書をがんばって読まなければいけないな。まったく背伸びなどするもんじゃないね。