秒針と交信する言語

至って普通の月曜日らしくない月曜日は、多くの人が呪詛を唱えているだろうというのが頭の中にちらつきながらも、何事も無かったかのように通り過ぎた。思い返してみると何が起こったかはっきりと思い出せなくて、むしろ存在していたのかと疑ってしまいたくなるほど。1年365日を20年近く繰り返していると、そういう空白の一日と言うのが膨大な数だけあって、それらはいかに僕らに寄与しているのかと問われると覚えていないので全く答える術が無い、というなんとも意味の無い質問になってしまう。圧縮された記憶はzipファイルのように解凍できるのだろうか、と考えては見るけれど、人間の脳の要領を鑑みればメリットなど唯の一つも存在せず、圧縮どころか削除してしまってもいいのかもしれない。粗大ごみのように脳の片隅に追いやられた記憶の端々は時折覗き込まれるだけで、必要なものがあるときに取り出す邪魔になったり、詰め込める容量を奪ったりしていて、とはいえそれらは微小ながらも自我を形成しているらしいので無碍にも扱えないという困った代物だったりする。まあバタフライエフェクトなんていうトンデモ用語があるくらいなのだから無駄ではないのだろうから、せいぜいやさしく扱ってあげるとしよう。
今日と明日は太陽の南中高度が最も高くなる日らしく、このぐらいの時間になるとそろそろ夜明けの準備をしなければならないところではあるのだけど、今月は梅雨前線なるカミカゼ隊も驚きかねない超強力前線部隊が駐屯しているのでそんな気配など微塵も感じさせてはくれない。そういうわけか知らないが一年で一番長い昼というのは大体いつもひどくどんよりとしていて、日照時間を増やしてくれたりなどしない。旧暦では夏と呼ばれるこの季節はいつだって人を滅入らせては喜んで、紫陽花の花などをふわふわと咲かせていたりする。六月が紫色のイメージなのは、思うにそれは紫陽花の花弁の色もさることながら、どんよりとした空の色のせいなのは間違いない。分厚い雲の上は強い日光で溢れているのだろうから、その隙間から光がこぼれてきたとしたら、宗教的な何かすら感じるのだろう、などと妄想をしていたりもするが、その存在はそれこそ神のように目に見えないもので、表層に出てきた薄暗い空を僕らは見つめ続けるしかないのかもしれない。