ライター116

人間というのは――この場合は僕に限るのかもしれないが――どんなに痛い目を見てもほとぼりが覚めるとすぐに忘れてしまうのだというのを最近つくづく感じる。飽きるとか忘れるという機能はある種の自己防衛本能とも言えるのかもしれないが、それにしたって結構理不尽なもので、そんな機能いらないよ、などと叫びたくもなる。この場合努力やら根性やらいわゆるジャンプのお約束で片付けられるのかもしれないけれども。なんかみんな99%の努力が天才を生むとか言ってるし。まあ大事なのは最後の1%なのだ、と言い始めるようでは西尾維新に侵されただけのただの中二病になってしまうのだけど、とはいえスポーツやら芸術やらをやっていると人が必死こいて乗り越えた、あるいはどんなにあがいても乗り越えることができような壁をひとっ飛びでひょいと乗り越えてしまう人がいるからやりきれない。もちろんその人たちだってそれなりの努力はしているのだろうけれど、対価によって得られる報酬の幅が桁違いで、それは要するにバイトをするときの時給換算にも似ているように思う。

まあ僕の露悪症自慢はともかく、昨日今日とうちの大学ではオープンキャンパスがあって、構内は多くの女子高生と少しの男子高生、その両親と思しき人たちで賑わっていた。そんなフレーズを聞くといかにも高校の文化祭などを想起させてしまいそうだが、そんな華やかなものではなく、むしろ陰鬱としていて、わざわざ桜桃忌に玉川上水を歩かせる性格の悪さがキャンパス内にもにじみ出ていたのではないかな、などと思う。思えば僕が二年前にここのオープンキャンパスに訪れたときもちょうど桜桃忌の日で、純真だったその頃の僕は「太宰治が死んだ日に玉川上水を歩けるだなんて、なんてロマンティックなんだ」などと感動をしていたから、ある意味大学側の戦略としてはあたっているのかもしれない。まあ太宰の命日を知っている人間が世の中にどれほどいるのかは甚だ疑問ではあるのだけれど。

そんなストレンジャーが無駄に大学内に押し寄せる日に僕は何をしていたのかと言われれば、大学内でボケっと座っていて時折思い出したかのように研究室から借りたカメラで大学内を撮影していた。別に女子高生がたくさん来ているから写真を取ろうとしたわけではまるでなくて、ただ暇だったからに過ぎない、ということは強く主張しておきたい。。それにしてもスナップを取るのは実に久しぶりのことで、思えば一年近くまともにとっていなかった。それは大学の授業で時間を取られているということもあるが、写真の授業を受けたことでそのメディアに対する魅力が感じられなくなってしまったということが大きい。はたから見ると面白そうなものでも、中に入ってしまうと途端に魅力が失われてしまうものというのは多々あって、僕にとってはそれが写真だったのかもしれないなとは思う。

こんな感じで時折やる気スイッチを押されたような感覚はあるのだけれど、1時間もすればそれも失われてしまうものだから、お前は鶏かよ、などと自分自身で突っ込みをいれたくもなる。とはいえ、ストレスと共にやる気らしきものも膨れ上がっていることを信じながら、また恐ろしき月曜日に対峙しよう。願わくば、七難八苦を与えたまえ。