What is the name of the rose?

西の空に丸い月が沈む頃に文章を書きはじめるなんて正気の沙汰ではないなと思いながらもディスプレイに向かいキーボードをたたき始める。年が明けてしばらく経つけれど、生活リズムはどんどんと狂っていき、またやる気のなさにも拍車がかかっている。元来引きこもり体質ではあったものの、今月に入ってからの外出の頻度はある意味特筆すべきことと言っても良いくらいで、週に最低2,3度は家に出ていた去年のことを考えると、ひどい有様と言っても差し支えない。飲み会という名目で何度か外に引っ張り出されているのは唯一の救いとはいえ、外に出るのが酒を飲むためだけというのも健全な人間としてはあまりに堕落しすぎているのではないかと、自戒したくもなる程度である。まあもともと冬になるとほとんど外に出なくなる傾向はあったから仕方がないといえば仕方がないことである。

年初めに未だに受験生をしている友人にお守りを買うために初詣に行ったのだが、初詣というのはあくまで口実で、どちらかといえばおみくじを引きに行ったついでお守りを買ったといった方が正確といえなくもないだろう。ここ数年は湯島天神という学問の神様のもとへ向かっている。別に学問の神様だからという理由で毎年向かっているのではなく、一浪のときにお茶の水の予備校に通っていて、そこがたまたま近くにあり、それ以後は半ば惰性で通っているといっても差し支えない。惰性で神様が振り向いてくれるのならば、宗教に熱を出して、高額な壷などを買わされてしまう人もいないわけで、まあ買ったからと言って神様に愛されることがないことを考えると、なんとも空しいものだとは思う。意気揚々として引いたおみくじは結局吉でなんとも残念な結果になった。新年の堕落具合を考えるとおそらくそれなりに当たっているのではないかと思うが、三年連続で大吉が出たのに、受験の結果が散々たるものだったことを考えると、結局は気の持ちようなのだなとは思う。まあ実力の割には結果が出たと思えなくもないが。おみくじの結果としてよかったことはひとつだけあって、かつてよりあった「おみくじというのは大吉しか出ないのではないか」という懸念が解消されたことである。もとよりそんなことがあるはずがないのだが、とはいえ三年連続で同じくじを引いているとなると、「ここ最近は不景気だし、経費削減のために全部大吉でいいや。手間も省けるし。つーかそのほうがみんな喜ぶでしょ」と神社が投げやりに、くじを箱の中に適当に突っ込んでいるのではないかと邪推もしたくはなる。そもそもこんなことを考えている時点でご利益などひとかけらも期待していないことが筒抜けにわかってしまってよろしくない。ここはひとつ、「神様。そんなことは露にも思っていないので、どうかこの一年をよい年としてください」と心の中にひそかに思っておくことにする。もっともひそかに思うだけで思いが通じるのかは甚だ疑問である。

最近あったことといえば、軽いボヤ騒ぎと携帯が壊れたことくらいでなんとも平和なものである。タバコの火を消し忘れたことはひどく親に怒られたものの、もとより火事になるようなものではなく、煙がもくもくと家中を満たして火災報知機が反応したに過ぎない。そのときの僕のあわて具合といえば、特筆するべきもののような気もするが、そんなものを書いたところで僕にとって何の得にもならないどころか、読んでいる人たちにとっても何の娯楽にもならないことは保証しよう。ただその直後にタバコを吸ったときに動転か安堵かによって髪の毛を軽く焦がしたことだけは言っておこうと思う。携帯が壊れた件に関しても、取り上げる必要性があるとは思えないほど平凡な出来事にすぎず、ただ湯船に携帯電話を落としただけという、ある種日常の一ページである。これが青春の一ページであったならどんなに嬉しいことかと思うが、そんなことはまるでない。そもそも青春という期間がどういう人物のいかなる時期のものかは議論に値するとは思うが、少なくとも僕とぼくの周りには青春を謳歌している人間は見受けられないようには感じる。ただ本人としては全力で謳歌していると感じている人もいうようなので、本人次第ということかもしれないし、単に僕の観察力がないのかもしれない。まあどちらにせよよくわからない。

ここまで来てようやく新年の挨拶をしていなかったことに気づき、自分の無礼さと新年の挨拶の無意味さにもまた気づく。あくまで挨拶は儀礼に過ぎなくて、それゆえにコミュニケーションとして成り立つのだろうか、などと愚にもつかない考えを持つが、それがもし有用な考えならば、おそらく論文の一つにでもなっているはずなので、興味のある人は検索してみるのもいいかもしれない。そういえば最近おそばせながら、論文がネットで見れるということを知った。物は試しとアクセスしたものの、有料であることを知って、世の中の不条理を嘆き、己のふがいなさを恥じたものである。要するにまあ金がないというだけの話だ。むしろ金があると言い張っている人をあまり見ることが少ないとは思うが、金がないというのもある種の定型句で何かをしたくないときに使われる定型句と思われる。ただし、ぼくの周りの人間があまねく金を持っていない可能性もあるので注意を払う必要があるだろう。とはいえ大学生には金も時間もあるというし、みんなは謙遜しているに過ぎないのではないかと考えている。日本人たるもの謙遜が美徳とはよく言ったものだ。

書き始める前というのはさてあれを書こうだのこれを書こうだのと考えて、想像は無限に広がっていくものだが、一旦書き始めてしまうとなにを書こうと考えていたかなど頭の中から完全に霧散してしまい、むしろある種の陶酔状態に陥っているので、自分でも何を書いているのかが把握できない。書いている本人ですらなにを書いているのかわからない状態であるのだから、読者としてはさもありなん、というべきでむしろそのような文章をお目にさらしている無礼を恥じたい心持ちであると心にもないことを書いていて個人的には吐き気をこらえている有様である。たとえ少しも配慮したこともないことでも形にするということは円滑なコミュニケーションを図る上では欠かせないことと言っても過言ではないが、そもそもその種明かしをしている時点で円滑なコミュニケーションをとる気がさらさらないともいえる。人間はコミュニケーションをとることができないなどとマクルーハンだかルーマンだかいう人が述べているわけだが、取る気がないのと取ることができないというのは似て非なるもので、だからといってどうというわけでもない。

唐突で少しばかり申し訳ないとは思うが、そろそろ疲れてきたのでこの長ったらしい日記もそろそろ終わりにしようかと思う。かつては何も書くことがないというネタだけで4〜5000字の日記を書いていたものだが、それも今は昔、はるか遠くの出来事のように思える。年老いた今においてはせいぜい1〜2000字の文章を打つだけで手は震え、頭痛が絶え間なくなってしまうという有様である。こんな症状になってしまうとなると年齢の問題だけでなく病気の心配もして見なければならないものだとは感じないでもないが、そのような症状は何ひとつとしてないので気にする必要もない。書き終えようとなると、却って筆が進んでしまうもので、今頃になって書こうと思っていたことを思い出し始める始末。とはいえ、一旦構成されてしまった文脈に新たに文脈を挿入すると、不自然極まりない文章になってしまい、個人的には不本意極まりない。まあ文章全体が不自然と言って良いものなので、その点は安心と考えられなくもないが、ここまで来ると自分の自尊心との対決になってしまい、戦うまでもなく、敗北に屈した挙句、負けるが勝ちだとたかだかに名乗りを上げ、手に負えない始末になってしまう。

というわけで文章の結びにあけましておめでとうございます、どうぞ今年もよろしくという言葉をおそばせながら添えておくことにする。形式的なものに過ぎないが、「言葉は神とともにあり、言葉は神であった」という言葉もあることだし、そういうのも悪くはないだろう。いささか文章が短いことが個人的には気に食わないのだが、仕方のないことだ。

どうせ意味のない文章だからね。