昨日、ママが死んだ。
といっても僕の母親のことではなく、僕の母親がママと呼んでいた人のことだ。僕も小さいときにかわいがってもらっていた人で、親戚の間柄としては遠い人だけれど、比較的近しい人だった。最近体調が悪いというのは聞いていたので、驚きはしなかったが、悲しくなることもなかった。悲しいことだと思う。
人の死というのは実に感情的なものだ。でもそれはそう教えられてきたからで、別に最初からそういうものなのではないだろう。ただ、そういった場所というのはいつも生臭い。たとえば、香典の費用の話とか、遺産の話とか、家族の関係の話だったり。彼女においては、主に家族関係の話が多かった。どうも、彼女は嫁姑の関係がこじれていたらしく、そういった話をよく聞いた。彼女の夫がなくなったときも、似たようなことが起こっていたらしい。
僕が彼女の家に行くと、昔よく顔を合わせた親戚たちがいる。人間の顔というのは思いのほか変わってしまうらしく、僕が挨拶をすると弟に間違えられた。部屋は畳の小さなものだった。小さな机を囲んで、親族たちが涙ぐんだり、ちょっとした話をしていたりして、彼らと最近あっていない僕はなんとはなしに居心地が悪い。思い出話を片耳に聞きながら、敷居をはさんで寝かされている彼女の顔をぼんやりと見ていた。よく人が死ぬとまるでまだ生きているみたいとよく言うけれど、土気色の顔と筋肉の垂れ下がった顔を見ていると、それが人間には見えなかった。彼女の前に正座を組んで座り、線香に火をつける。手を合わせてから目を閉じたけれど、何を考えればいいのかわからなかった。みんなどういうことを考えながら線香をあげるのだろうか。必死に生きているころのことを思い出そうとしたがうまくできなかった。
彼女が寝かされている部屋では親戚の小さい子供たちが、プラモデルを触って遊んでいる。悲しいという感情はそこにはまったくなくて、むしろ無邪気に線香をあげたりしていた。ぼんやりと見ていると、彼女の孫が「昨日ね、いいことがあったんだよ」と言い始める。「運動会があったんだ。俺ね、50メートル走で一番になったんだよ」と言って自慢げにしている。「そうか、すごいね」と言ってその子の話を聞いていた。とても楽しそうに話すものだ。子供というのはすごい。それを聞きながら、「死ぬことが悲しい」というのはあくまで周りから教えられたもので、実際はそうでもないのかもしれないなどと考えていた。
昼飯を食べてから、家を出る前に息子夫婦に挨拶をしにいくと、嫁は振り向きもせずに洗い物をしていた。

たぶん太陽が出ていたなかったからだと思う。