Do you have the time?

短い春が終わり、季節は夏へと向かう。雪の中で乱れ咲いていた桜は瞬く間に散り、青々とした若葉が目立ち始めてきた。雨も春独特の冷たいものから、しとしととした梅雨のものに変わっている。今年の春は短かった。気候が散らばっていたからそう感じたのかもしれない。少なくとも今年の春は四季の「春」と呼ばれるものではなかっただろう。それをどう受け取るかは人それぞれの話で、自身に関するメタファーと感じる人もいれば、たんなる異常気象と割り切ってしまう人もいるだろう。僕はというとそのどちらでもなくて、単にめんどくさいなあと思うばかり。これがもともとの気質なのか、あるいは五月特有のけだるさゆえなのか、今のところはわからない。もっとも、季節に対して敏感な人は今の世の中ではそう多くはないのだろう。そしてまた四季が失われることで困る人もほとんどいないのだろう。

大学に入ってからもう二ヶ月近くになる。時間が過ぎ去るのは早くて、この間入学したばかりだと思っていたのに、もう六月になろうとしている。このあとの四年もこんな感じで過ぎていくのかと思うとぞっとしない。年を取れば取るほど、時間というのは短く感じていくと言うけれど、その通りなのかもしれない。思えば、幼い頃は一日というのがやけに長く感じられた。やることがあまりなかったと言えばそれまでだけれど、あの頃は時間という形のないものを肌で感じていたように思う。時間は時間であって、他の何かに還元できるものではなかった。年を取るにつれて、「時は金なり」ということわざに示されるように、時間というものをそれ自身としてみることよりも何か――娯楽であるとか金であるとかそういう即物的なもの――のためのものとして感じるようになっていったように思う。そうなっていくうちに、何もしていない時間がいわゆる「無駄」と呼ばれるものになってしまった。この効率社会においては、無駄というのは最も毛嫌いされるものだ。そうして無駄を削っていくうちに意識の中で時間が圧縮されていって、時間を短く感じるようになっていくのだ。そう感じるようになれば、どんどん時間に縛られていく。短いのだから大切に扱わなければならない、と。気がつくと、時間は人の中にあるものではなくて、人を支配するものになっていたのだ。もっともこんなのはチャップリンの受け売りに過ぎないのだけれど、そんな風に思ってしまう。別に効率を大事にすることが悪いとは思わない。お金がなくては生きていけないのは事実なのだから。でもそのことばかり言われるとげんなりしてしまうよ。多少効率主義も必要なことだし、今の世の中で生きていくために必要なことだとは思うけれど、せめて季節をのんびり感じ取れる程度の余裕くらいは欲しいものだよねえ。まったく。
ああ明日も雨か。