現実に対する観察あるいは洞察に関する考察という自己視察

中だるみというにはあまりにもたるんでいる時期が長すぎるこのごろ。結局のところやる気があるのはいつも最初だけで、いったんたるんでからそれを戻す技術がないだけという話なのかもしれない。なんにせよ、最近はそれがひどい。やはり自由を上手く扱えるほど成熟はしていないのか。昔は年をとればとるほど成熟するものだと思っていたけれど、そうでもなくて、どちらかというと最近は幼児化が激しいような気すらする。たちの悪いピーターパン症候群だ。もっとも子供であること自体はそう悪いことではなくて、単にそれが今直面しなければならない現実と相容れないだけのことなのだとは思っているけれど。
この間、そう昨日か、デッサンの講評をされたときに、その形態を捕らえるために物を見続ける、よく見ることは大事で、それはたぶん現実においても変わらないと言われた。そのことばが頭に残っている。絵を描くときでもその物体を見続けるというのは存外大変な作業で、ある程度の辛抱強さがないと勝手にデフォルメして書き直してしまったりするもので、僕もその例に違わずそういうことが多い。案外自然物というのはバランスが悪くできていて、そこをデフォルメしてしまうと途端に人工物くさくなってしまったりする。その話の直前にギリシアの文化とイデアについての話がでていたから、なんともタイミングのいいものだなあ、とか思ったものだけれど。
話がそれた。そのデッサンと現実に対する姿勢を絡めたことが実に面白くて、よく考えてみると、現実というものも直視し続けること、そしてその形態をしっかりと把握することはとても難しい。いつだって良いようにあるいは悪いように解釈してデフォルメしてしまう。確かに現実というのも辛抱強く見続けるのは大変なことだ。それはきっと絵を描くときよりも。いつのまにかエロゲがクリアし終わっていたり、話題の映画を見ていたりというのはそのことができていないということなのかもしれない。まあ人生というのはそう堅苦しく考えるようなものでもないのかもしれないけど、それにしたってある程度の節度や意思というものがなければきついだろう。断定形で書くことができないのは現実に対する観察が甘いからなのだけれど。といっても細かく見ようとすると視野狭窄になるし、広く見ようとすると細かいところが雑になる。結局のところ、十全なる解など存在しないのは道理で、何にしたってメリットデメリットが存在する。そのことを把握して使い分けることが解といえば解か。
まあ今の状況をかんがみると、広い視野など必要ではなくて、目の前の障害を乗り越えることに集中すべきだというのが最善と思しき解答。もっともそんなことはハナからわかりきっていたことで受験生というのは大抵そういうものである。しかし何か型を当てはめられるとどうしても反抗してしまいたくなるのは僕の悪い癖だ。悪いといいつつ大して悪いと思っていなくてむしろ悪いことがいいとすら思っていそうなのがさらに質が悪いと思うけれど。もっとも善悪の定義なんて曖昧なものだ。まあそのことをいってしまったらおしまいか。仮にもし反抗をするのなら結果を出さなければならない。きっと違いというのは共通点が多いから存在するもので共通点のないものに違いなど存在しなくて、個性というものもなにか下地がなければ存在しないのだろう。