カーニバルの終焉

最近タバコの量が増えた。別にもともと大して吸うつもりもなかっただけれど、せっかく一箱買ったのだしもったいないな、と機械的にこなしているうちに、気がついたらタバコを吸うのが日課になってしまった。まあ悪いことをするのには理由は要らないというけれど、どんな悪事というのも得てしてこういう風に何の気もなしに始められたものなのかもしれないなあと思う。

どうも九月に入ってからは、どこか気が抜けてしまったような虚脱感があって、今日はタバコを吸いながら外をぼんやりと眺めたり、散歩をしたり、『カラマーゾフの兄弟』を読んだりしていた。ロシア文学を読んだのは瀬戸口廉也の話を聞いたからかもしれない。彼の書く物語というのは深くてやわらかい絶望の中に包まれているような感覚を持っていると思うのけれど、彼自身もどこかそこに通じるような、さばさばとしているけれどどこかやわらかい雰囲気をもつ人だなと思った。彼にすごく雰囲気の似ている友人がいて、そいつに小説を書かせたら面白いものが書けるのかなあ、と彼の話を聞きながらそんなことを考えていた。

家に帰ったあと、ふと昔書いた文章をいろいろと読み返してみた。きっとものすごく気持ち悪いことを書いているのだろうなあと思っていたけれど、案外そうでもない。自分の文章を読み返したときにある種の恥ずかしさを覚えないのはどこか不思議な感覚だった。ごみあさりをしていたら、ふと思わぬ掘り出し物をみつけたようなそんな感覚に似ている。それでもまあ顔を背けたくなるような文章がいくつかあって、穴があったら入りたいというのはこんな感じなのかなと思った。もしかしたらこの文章もある程度年月が経ってから読んだら、すごく恥ずかしいのかもしれない。そんなことになっていないといいなあ。

というわけで僕の大して身のない質問に真摯に答えてくれた瀬戸何とかさんもとい唐辺さんに敬意を示しての更新でありました。